移住、就農、ちいさなナリワイ・陽と月(ひとつき)農園就農ブログ。そして健康に暮らすためのすべてを記します
社会に満ちる毒から家族を守れ
246日目 半農半X
2015-01-01-Thu  CATEGORY: 哲学


陽都はつかまり立ちを始めるようになった。

新年明けましておめでとうございます。
今年は我が家にとって転機の年になることだろう

全力で良い年にしていきたいと思います。
皆様にとってもよい御年になりますように。

今日のタイトル「半農半X(エックス)」は新しい(?)生き方のモデルである。
農業で自分の食べ物を自給しながら、もう半分を自分の天与の才を生かした社会に貢献できる小さな商売をしながら収入を得るという生き方だ。
つい100年前まではだれもがそんな生き方をしてきた。

しかし資本主義の波が押し寄せてきて企業に雇われる「会社員」が当たり前になった。
100年前には約四万種類あった職種は、現在では2000種類ほどに激減した。

競争力のない小商いは衰退して時代遅れとなったように思われていた。

しかしそれは間違いだと「半農半X」と同名の本は訴えている。

なりふりかまわない大資本と張り合おうとするから敗れるのであって、大きく儲けようとせず、小さく、人情を大切にしながら行う「なりわい」はこの行き詰った経済を再生へと向かわせる大きな原動力となると指摘する。

大量の物を作って、売り付けるというこれまでのシステムでは、売り付けるための新しい市場が必要だし、不必要な消費を常に消費者に煽るための偽りに満ちた演出が欠かせないし、激しい技術競争、価格競争にさらされ、現場で働く人々を疲弊させる。企業としての利益を優先させなくてはならないため、自分の意に反した働き方になって、職場に意義を見失う人も多い。環境にも多大な負担をかける。

ところで半農は良いにしても「半X」のほうは敷居が高いように感じる。
天与の才と言われても多数の人が「私にはそんなものがない」と感じるに違いない。

これについては「ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方」という本にそのヒントが述べられていた。

なぜ、現代人の多くが

「自分にはなにもない」

と感じてしまうのか?

これは現代社会が労せず、ほとんどのことを人に与えすぎてしまっていることが原因であると述べている。ようするに自分でなにかを作り出す必要性がほとんどないので(買えば足りる)、創造性に関する感性が退化して錆ついてしまっているわけである。

ではどうするか?

これは田舎での素朴な生活や大自然とのふれあいの中で自然に呼び起されると述べている。
ようするに便利が人間を退化させるのであれば、すこし不便な生活をしてみるということなのだろう。

私の天与の才とはなんだろう?
私こそ「じぶんには取り立ててなにもない」と感じる人間の代表だろうと思う。

しかしそう思っているのは自分だけかもしれない と同じように悩む方に私は訴えたい。

たとえば私の場合

「他人の便まみれのオムツを取り替えることができる」 → 介護をやったことのない人の多くは「私には生理的に絶対無理」と主張する。

これは「絶対無理」と言う人がいる中で私はできるわけだから、私の才だろう。

「高齢者の話を長く傾聴することができる」 → 「老人の長話をずっと聞いてるのなんて私は絶対無理、気が持たない」と主張する人もいる。

これも「絶対無理」と言う人がいる中で私はできるわけだから、私の才だろう。

「何十冊・何百冊もの書籍をコツコツと読書して知識を得る」 → 読書が苦手だったり、忙しさのために読書できずに本来、必要な知識を得られていない人も多い。

これも私の才。

「常識に囚われない思考(変わり者と他人は言う(笑)」 → 常識に囚われて、疑うこともできず、食い物にされている人は多い。

これも才。

等々であるが、なんだこんな程度と思われるかもしれないが、こんな才がいくつか組み合わさるだけで意外とナリワイというのはできあがるものだろう。

それで大金を稼ごうというのではない。あくまで自分が生計を立てるだけの小さな収入を得られればいいのだ。
収入的にナリワイが一個で足りなければ、2個、3個、4個と組み合わせればいい。

だれもがこんな生活をする必要はもちろんない。
しかし社会や会社の歯車の一部となって摩耗するように働くことに心の奥で疑問を感じている人も多い。

「いまは不本意なことも多くて辛いことも多いけど、定年まで頑張って老後はゆったりと自分の好きなことをやるんだ」

こんな風に思いながら働いている人はいないだろうか?

「老後に自分の好きなことをやるんじゃなくて、いまこの若いうちに自分の好きなことをやりながら、もっと精神的にも(もしかしたら金銭的にも物質的にも)豊かに暮らせる」

といままでの常識をこれから私はぶち壊していこうと思います。
(まあ、すでに実践されている先人はたくさんいるので、偉そうなこと言いたいわけではないのです)

私が訴えたいのは生き方の多様性です。

競争社会で闘争心をかきたてられて生き生きと活躍する人がいてもいいし、人と争うことを好まず、ちいさなナリワイと農業で生計を立てる人がいても良い。

どちらでも選べるし、どちらを選んでも偏見のまなざしで見られることのない社会がくればよいと思っています。

現実的には世界を牛耳っている勢力からみれば、小さなナリワイと農業で生きる人は好ましくない勢力ということになると思うので(頑張って大量消費や労働をしてくれないので権力者に富を落さない)、真の情報の隠ぺいや偽の情報への誘導が多く実現は困難を極めるのでしょうが。

さて、そんな真の情報の隠ぺいについて最後に。

「自給自足生活っていったって元気なうちは良いけど、病気になったりしちゃったらどうするの? 会社勤めしていれば、労災で補償されたり、職場にいけない期間でも傷病手当金で生活が保障されたり、万が一、失業しても失業保険がもらえるよ」

だから会社勤めのほうが良い

なるほど、たしかに一理あるように見えます。

しかし私はこう思います。

現代社会の病気の9割以上は社会や会社でのストレスや、社会に満ちる社会毒(内服薬や不必要な対症療法、農薬、環境ホルモン、洗剤、遺伝子や品種改良された作物、抗生物質やホルモン剤で汚染されている肉、海洋汚染されている魚介類、電化製品から発せられる電磁波、食品に含まれる添加物、住宅の化学建材、放射能などなど)から作り出されている。

その中でも精神的なストレスや過労によるストレスはかなりの割合を占めている。そのストレスから煙草や酒、過食に走ってさらなるストレスを体に強いたり、ギャンブルや消費(買い物)に走って金銭的に余裕がなくなり、さらに仕事に縛り付けられる。

そして病気は生み出される。

そんな生活を繰り返す中での「保障」とは本当に魅力的なものなのだろうか?

「病気になったけど生活は保障された。よかった、よかった」

これが本当に正しいのだろうか?

「病気にならず、元気に暮らせた」

本当はだれしもこう思うはずだ。

以前の自分の過去ログから引用する


現在の日本の年間医療費40兆円弱。

1955年の国民総医療費2388億円(約0.24兆円)(このときの総人口9000万人)
それが
2014年の国民総医療費40兆円になろうとしているのだ(総人口約1億3000万人)

大卒公務員の初任給 1955年が9000円。
2014年が18万円

人口が約1.5倍になったしてお金の価値が20倍になったからといってこの医療費の増大はおかしすぎる。(ちなみに0.24兆円を20倍して1.5倍すると7兆円)
医学は日々進歩しているはずなのに、数値が逆の結果を示している。

引用おわり。

病気は一つ一つは小さな社会毒やストレスの蓄積によって作り出されている。

そこから遠い生活をすることは「会社勤めの保障」よりもはるかに本質的に自分や家族の健康や生活を護る手段になりえると確信する。












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233日目 減速して自由に生きる
2014-12-19-Fri  CATEGORY: 哲学
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陽都はぎこちなくだが「ハイハイ」を始めた。
両手をもってあげれば「タッチ」もできる。

11月はもっぱら家づくりの本を読むことに費やした。
しかし12月に入ってからは「生き方」についての本を読んでいる。

特に「仕事」に関しての本。

家を作るのは半年ぐらいはかかるだろう。
その間の生活を支えるための収入が必要。

まずは田舎の格安の家を借りてそこで生活の基盤を作ってから、ちかくに手ごろな土地を見つけて、こつこつと家を作っていくほうが合理的だ

今日のタイトルになっている

「減速して自由に生きる」 高坂 勝 著

トップギアで仕事に突っ走るサラリーマンの生き方に

「シフトダウンして減速して、もうちょっとゆったり生きるっていうのはどう?」

と提案している。

田舎なら都会ほど生活にお金はかからない。
ただみたいな値段で住処や畑が借りられる。
米や野菜、食べ物を自給できる。
だから週5~6日、あくせく仕事をしなくてもいい。
家族と過ごす時間を増やしたり、自分の内面を磨くことに時間を使えるよ

と提案されている。

私の現在の仕事はどうだろうか?
朝の7時ごろに起きて子供と触れ合う時間もそこそこに出社していき、休み時間もないほどに働いて夜の9時過ぎに帰宅して、子供の寝顔をみながら、ご飯を食べて風呂に入り30分も読書するともう寝る時間。
休みの日は少し家事を手伝って、平日できない子供との時間を過ごし、食材の買い出しにでも出て帰ってくればすでに暮れている。自分を見つめなおしたり、豊かな生き方を勉強する時間もない。
そうやって得られる収入は月に30万にも満たず、毎月の出費に多くが消えていく。

こんなことを書けば、きっとお叱りを受けるだろう。

「なにを贅沢を言っているんだ。生きるということはそういうことだろう、甘いもんじゃない」

「もっと身を粉にして働いている人がいる。まだ良いほうだ。」

「仕事にまい進し、社会貢献する。人として当然のことだろう。怠けたいのか?」

「家庭を持てば責任が生まれる。自分をある程度犠牲にして働くのは当たり前だ」

いまの日本はみんながそうやって発展させてきたのだし、だからこそ戦後の焼け野原から、いまや世界有数の先進国なのだ。日本の技術力や創造性は世界に誇れるし、それを積み上げてきた先人たちに深く敬意を捧げる。

しかしその代償は大きかった。

多忙すぎるせいで、家庭にひずみができてしまったのか?
多忙すぎるせいで、子供に手がかけられなかったのか?
多忙すぎるせいでのストレスで家庭で上手く自分の役割を果たせず家族がバラバラになってしまったからなのか?
多忙すぎるせいで、この世界の仕組みやシステム、罠について気づくことができず、疑うこともなく、あらゆる利権の食い物にされている。(最期までそれにも気づけない)

ライフバランスが偏りすぎている。

私は高度経済成長を支えてきた高齢者の方々をお手伝いする介護士だ。
誤解を恐れずいえば、あまりに貧しい老後を送っている方々が多い。
家族から孤立して、うとまれて、虐待されて、虚無のなかで残りの人生をただ消化しながら、その時を待っているだけ。

その方達の時代にも減速して生きるという選択肢があったのならどうだったのだろう?

資本主義経済は消費しなくては成り立たない。
借金を負わせてでも次々に買わせる。それを良しとするシステムでなくてはならない。
長く使えるものはダメ。定期的に新しいものを買わせなくてはいけない。
使い捨てのものがベスト。

その使い捨てのものを作るために地球を壊し、汚れ、自然が悲鳴をあげようとも。

自分たちの子孫にその汚れを押しつけて、今を生きている。
消費しなくては経済が発展しないのだから仕方がないと叫びながら。

ローンを組ませるのがベスト。そして仕事に縛り付け、税金を払わせ、国の予算として吸収してから浪費して利権者に甘い汁がしたたる。

しかし東日本大震災と原発事故以来、そんな生き方や社会構造に疑問を呈する人が増えている。
それ以前から消費経済に疑問を感じながら、違う生き方を実践していた先輩たちをお手本に新しい生き方を模索する人たちが増えている。

これも新しい時代の潮流のひとつだ。

高坂さんは仕事を減速して自由に生きている。
家族との時間を多くとり、社会を良くするための活動に多くの時間を割く。
「ダウンシフター」として生きている。
そんな生き方を実践する人々を「ダウンシフターズ」と定義する。

それを無謀な生き方だと思うだろうか?

高坂さんは著書の中で述べている。

「現在日本には埼玉県全部に匹敵するほどの畑が放置されている」

「その畑全部を使ったと仮定すると2000万人超の人が自分で自分の食べる米を自給できる」

「家族3人が自給できるだけの米を作るために必要な面積は200坪超。必要な作業時間は年間約20日の労働時間」

残りの345日を使って貴方はどう、自分の人生を生きますか? と暗に問うている。
もうちょっと畑を増やして野菜も自給したらいいかもしれない。

私が試しに田舎暮らしに必要な生活費を試算してみたところ、8万円弱でした。
おおざっぱで少し甘い計算かもしれませんが、税金も計算にいれたし、食費も20000円ほどで計上しています。(目指すところは完全自給なのですが、いきなりは無理だと思うので)
さらに雑費として20000円も毎月計上しても8万円弱で家族暮らせる可能性があります。

「月3万円ビジネス」という本があります。田舎ならニッチな仕事で約2日間の労働で3万円稼げるという趣旨の本です。
これを3つ組み合わせると約1週間の労働で1カ月分の生活費が賄える可能性があるということです。(現実には貯金も必要だしもう少し稼ぐのでしょうが)

支出の少ない暮らしをすれば、少ない収入で豊かに暮らせる。

お金がなければ娯楽ができないじゃん? そんな人生つまんない

と思われるかもしれません。

たしかに、ある人によってはそうかもしれません。

でもある人によってはそうじゃないかもしれません。(お金がなければ人生、楽しめないと思わされている・洗脳されている可能性があるかもしれないということです)

眠くなってきたのでまとまらないままですが終わります・・・(--


最後にわたしが自給自足にこだわる理由を。

買うとその食材がどういう経路で作られたのか分らないからです。
産地偽装されているかもしれません。
肉は成長ホルモン剤や抗生物質、飼料の残留農薬などに汚染されているでしょう。
スーパーに並んでいる食材などはカラクリが多すぎて信用に値しません。
一例をあげれば「国産大豆使用」と書かれた納豆や豆腐。
国産大豆100%ではなくても50%以上使用していれば「国産」と表記できるカラクリがあります。

あらゆる食品の裏面にある原材料記載。
あれもあてにならないそうです。「最終の加工工場」で使用されたものについてのみ記載すればよい仕組みだからです。
たとえば煎餅を考えてみます。
醤油煎餅だとして、醤油はその加工工場で作られたものではないので、その醤油に含まれる添加物などは記載の義務がない。どんな有害な添加物が入っているかわからないということです(たとえば発がん性のカラメル色素や遺伝子組み換えの農薬汚染大豆など)

飽食の時代と言われますが、知れば知るほど疑問を抱かざるを得ません。
なんと貧しいものを食べさせられている時代なのだろうかと。
そんなものを愛する子供に食べさせなくてはいけないのかと。

無農薬の野菜と農薬を使用して栽培した野菜では放置したときに明らかが違いがあると言われます。

無農薬の野菜が萎びていくのに比べて、農薬使用の野菜は腐敗していきます。
理由までは調べていませんが、農薬の毒性に耐えきれず植物が崩壊していくからなのか?

もしくは農薬の使用によって本来植物に付着しているはずの有用微生物群が死滅しているために、その空いたスペースで腐敗菌などが爆発的に育つからなのか?

私達が日々食べているのはそういう野菜です。

全部かきかけですが寝ます(_ _ zzZZZ




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